タスキギー梅毒実験②

都市伝説


今回は「あるごめとりい」より「【実話】黒人梅毒患者を死ぬまで放置…アメリカの胸糞すぎる人体実験とは…」を文字起こししました。

悪い血の噂

1932年、アメリカアラバマ州メイコン郡タスキギーが今回の舞台である。



人口の95%を黒人が占めるこの地では、多くの貧しい黒人が暮らしていた。

当時のアメリカは人種差別が酷く、下層階級の黒人は教育や医療を受けることすら出来なかった。

タスキギーに住む黒人たちも例外ではなかったが、ある日を境にこの村の男性陣は全ての医療を無料で受けることができるようになった。

彼らは見たこともないような素敵な車で送迎され、地元のタスキギー大学の診療所に通い、さらには食事まで振舞われるなど、今までの貧困生活とは正反対となり、人種差別に苦しんできた彼らにとってこの恩恵は「希望の光」であった。

しかし、なぜこれほどまでに好条件の待遇で、しかも無料で医療が提供されることになったのだろうか?

その裏にはある恐ろしい病が関係しており、実はこの無料医療が提供される直前、村である噂がささやかれていた。

それは「ここの村人には悪い血が流れている」という根も葉もない噂話だったのだが、多くの村の人々はこの噂を恐れた。

そもそも彼らはロクな教育を受けていなかったため病気の知識が一切なく、「悪い血」が何なのかわからなかった。

そのため、いつの間にかこの悪い血が恐ろしい病だという憶測が生まれ、その噂は瞬く間に村中に広がり、村人たちは自分たちがこの病に感染していると思い込み恐怖に陥った。

そんな村人たちのもとに数名の医師がやって来て、こう言った。

「君たちの病気を治療させてくれ」


この急な申し出に村人は驚いたが、この医師陣の中に、この村の出身である看護師のユニース・リバースがいたため、この夢のような話を安心して受け入れてしまった。



何より黒人たちは差別に苦しみ肩身の狭い生活を強いられて来たため、この医師たちの申し出に「ついに自分達の存在が認められた」と喜ばしく感じた。

しかし、村人たちは知らなかった。

実は、この治療は・・・



タリアフェーロ・クラーク

タスキギーで「悪い血」の噂が流れる少し前、一人の人物がある病気の治療法を見つけようと研究に勤しんでいた。

その人物の名はタリアフェーロ・クラークである。

彼が研究していた病気は非常に恐ろしい感染症で、当時この感染症の治療法はおろか、その症状の多彩さ故に実態すらもよくわかっておらず、しかもこの病は放置すれば死に至る危険性もあった。

クラークはそんな状況を危惧し、どうにか治療法と症状の把握をする必要性があった。

そんなにも恐ろしい感染症の正体とは一体何なのだろうか?

それは梅毒である。



梅毒とは?

梅毒とは性的な接触や他人の粘膜や皮膚などと直接接触することでうつる感染症である。

原因は梅毒トレポネーマという病原菌で、梅毒という病名は症状に見られる赤い発疹がヤマモモに似ていることに由来している。

感染すると、全身に様々な症状が出る。

梅毒は感染後に経過した期間によって、症状の出現場所や内容が異なってくる。

まず、初期には感染が起きた部分にしこりができたり、股のリンパが腫れることがある。無痛の場合が多く、症状は自然治癒するケースが多い。

感染後、無治療で3ヶ月ほど経過すると、全身にうっすらと赤い発疹が発生する。この発疹は自然に消える場合もあるが再発する可能性もある。このような症状から、アレルギーや風疹に間違えられることがある。

そして、この時期に適切な治療を受けられなかった場合、臓器の障害に繋がる可能性が高くなってしまう。

感染後数年経過すると、皮膚や筋肉、骨などにゴムのような腫瘍が発生することがあり、また、心臓や血管、脳など複数の臓器に影響が生じ、場合によっては死に至ることもある。



もちろん、現在では治療法が確立されている病気なのだが、当時は治療方法はおろか、一体どういうメカニズムでその病気になっているのか解明すらされていなかった。




クラークの梅毒実験とは?

クラークは驚くべき方法で治療法を確立しようとしていた。

クラークはまず、梅毒の治療法を確立させるためには、多くの梅毒の症状を把握する必要があると考えた。

そして、有効な治療薬を見つけるために梅毒の感染者を6ヶ月間無治療で観察し、その後、投薬実験をしてその効果を記録することにした。

しかし、この症状の観察と投薬実験にはより多くのサンプル数が必要で、いったいどこからこの実験に参加してくれる梅毒患者を連れてくればいいのか…

そこで目をつけたのが、梅毒の感染者が多いとされるタスキギーだった。

実はタスキギーのような貧しい村では避妊具は買えず、正しく避妊ができないという理由で梅毒の感染が拡大していた。

クラークはその事実を正直に村人に伝え実験を開始すればよかったのだが、それをためらった。なぜなら、効果の定かではない薬を投与することに負い目を感じていたからである。

そしてクラークは被験者には病名や研究内容を村人に伝えないことを決める。

しかし、これらの情報を伝えずにどうやって村人に協力してもらおうというのか?

そう、これこそが先にお伝えした、タスキギーの村人たちを震え上がらせた噂の正体で、なんとクラークは巧妙に「悪い血」の噂を流布し、黒人たちにありもしない病気を信じ込ませ実験に参加させたのである。



レイモンド・ヴォンダーレア

クラークは善意でこの実験を行っていたのだが、ある人物が現れとんでもない考えに至ってしまう。

クラークは当時、治療に有効な可能性があったサンバルサンという薬を投与していたのだが、効果はなかった。

しかも、この薬は毒性を持つヒ素を含む化合物であり、人体に大きな副作用があった。

他にも、梅毒に効果がありそうな薬を試してみるも成果は出ず、研究は長期化するが有効な治療薬は一向に見つからず、投薬実験はことごとく失敗に終わる。

そして研究資金も底を尽き、とうとうクラークは研究を断念する。

しかし、クラークが絶望に打ちひしがれている裏で、密かに動く男が一人いた。

その男は実験に参加していた医師の一人、レイモンド・ヴォンダーレアであった。

彼は多くの研究員に「新しい実験をしよう」と声を掛け、ほとんどの研究員がレイモンドの提案に賛成し、彼の実験に協力するようになった。



しかし、この実験のきっかけとなったクラークは研究を諦めたというのに、レイモンドは一体何を企んでいたのだろうか?

彼はクラークと共に梅毒の治療薬を見つけるための実験に参加したことをきっかけに、ある一つの興味が湧いてきた。

それは「このまま梅毒を放置したら、どのようになるのか?」ということだった。

そこで彼はなんと、梅毒患者たちを無治療のまま放置し、経過観察だけを行うことを思いついた。

この実験を知ったクラークはもちろん大激怒したが、レイモンドは昇給や高待遇をエサに多くの研究員を実験に参加させる手はずを整えていた。

こうして打つ手がないままクラークは辞任し、クラークが去ったあとレイモンドは、梅毒が中枢神経に感染した場合に及ぼす影響について長期的な観察をしようとした。

そのため、この実験の期間はなんと無期限。被験者の黒人たちは梅毒の症状に苦しめられながら死ぬまで放置された。

レイモンドの実験にはより多くの被験者が必要で、というのも、彼は梅毒が神経に及ぼす影響について、感染者と非感染者の比較を行いたかったのである。

そこで彼は、もともとの研究対象者を含めた村中の男性にさらに特別な治療プログラムを行うと公表した。

このプログラムに参加すると、家族全員の食事や医療費まで無料にすると触れ回ったのである。

クラークの行った医療プログラムの恩恵は被験者のみの対応だったため、家族までも恩恵を受けられるのかと村人は大喜びし、その多くがすぐにプログラムに参加した。

その数なんと600人である。

そのうち399人が、すでに梅毒に感染していた。

しかし、レイモンドがここまで恩恵を与える理由は何なのだろうか?

実はこの比較実験を行うためには、全被験者に腰椎穿刺という腰に針を刺す激痛を伴う診察をする必要があった。


もともと村人たちが知る「悪い血」の治療は点滴や注射程度だったので、研究に参加していた男性たちは治療の変化に驚き、多くの恩恵があるとはいえ不信感を覚える者も現れた。



ユニース・リバース

そこで重要人物となったのが看護師のユニース・リバースである。



この人物は村の人々の信頼があることをいいことに、それにつけ込んで裏で暗躍していた人物である。

リバースはタスキギー出身の黒人女性であった。そのため、教育を受けていない黒人社会の方言や慣習に基づく住民感情に精通していた。

最初、彼女は純粋に梅毒の治療法を確立したいというクラークの志に感銘を受け、この実験に参加した。

しかし、レイモンドにそそのかされたのだろうか、すっかり彼の手先になってしまった。

リバースは被験者が治療プログラムにネガティブになったり、不信感を持っていることをいち早く察知し、彼らが実験に前向きになるように一人一人と信頼関係を築いていった。

また、この実験は秘密裏に行われていたため、担当医師が頻繁に変更になり、そんな時にはリバースが被験者と新任医師の間の溝を埋め、意思の疎通を図っていた。

被験者はいつしか診療所をミス・リバースの小屋と呼び、彼女のことを完全に信じるようになっていた。

そして実験が始まってから月日が経ち、15年後の1947年、アメリカ連邦政府がある発表をした。

それは梅毒の治療にはペニシリンが有効ということである。

アメリカ連邦政府は様々な医療プログラムを準備し、梅毒を撲滅するための緊急治療センターを設けた。

もちろん、この治療センターはタスキギーの村人も自由に参加が可能だったが、リバース率いる非道な研究員たちは、自分たちの患者がペニシリンの投与を行うことを妨害し、なんと、彼らが読み書きできないことをいいことに情報の遮断まで行った。

こうしてこの実験は1932年から長きにわたり続けられ、その期間はなんと40年である。



ピーター・バクストン

長年、こうして嘘まみれの実験が行われてきたわけだが、やっと本格的に反旗を翻す人物が現れる。

この梅毒実験は倫理的に問題があるにも関わらず、医学雑誌などに掲載されるようになっていった。

数人の医師がこの実験の非人道さを危惧し手紙を出したのだが、医学雑誌の著者によって全て破り捨てられてしまう。

そして1966年、とある人物がこの実験を続けることへの倫理性や道徳性を懸念する申し出をする。

その人物とはカリフォルニア州性感染症調査官ピーター・バクストンである。



しかし、彼の申し出も他の医師と同様に無視されてしまう。

当時、この実験を管理していた疾病対策予防センターは異議に耳を傾けず、実験の必要性を確認するだけだった。

この一貫した対応にはある理由があった。

なぜならこの実験には、長年実験に出資し続けるとある団体が絡んでいたからである。

その団体とはなんとアメリカ公衆衛生局である。



アメリカ公衆衛生局というのはアメリカ合衆国保健福祉省の下部組織で、日本でいうところの厚生労働省の下部組織のようなものである。

そんな国家ぐるみで行われていた非道な人体実験であるが、ついに終焉を迎えることになる。



タスキギー梅毒実験の結末

調査官バクストンがタスキギー梅毒実験の問題を訴え続けて6年もの月日が経った1972年、バクストンは抗議の手紙を出しても上司に訴えても何も変わらない状況にうんざりしていた。

しかし、突然あることを思いつく。それはより多くの人々に真実を伝えることができる方法だった。

バクストンは新聞社に訪問し、マスコミに情報提供することで一気に情報を拡散することにした。

同年1972年7月25日、まず真っ先に飛びついたワシントンD.C.に拠点を置く保守系日刊紙ワシントン・スター紙が記事を新聞に掲載。

そしてその翌日、地方紙でありながらもアメリカを代表する新聞・ニューヨーク・タイムズが一面に記事を掲載した。

そして非道な梅毒実験が国際的な注目を集めることになり、その結果、この実験は世界中から痛烈な批判を浴びることになった。

こうして長きに渡った実験は終了し、被験者であった黒人男性たちは、この時初めて自分たちが利用されていたことに気がついたのである。

そして、この事実が白日のもとにさらされて5年後の1997年5月16日、タスキギー梅毒実験の被験者に対してある人物が謝罪を行った。

その人物とは、当時のアメリカ大統領ビル・クリントンである。



しかし、謝ったからいいという問題ではない。

この梅毒実験の結果、最初の感染者399人のうち28人が梅毒、100人が合併症により亡くなり、彼らの配偶者40人にも感染が確認され、19人もの子どもたちが先天梅毒を持って生まれた。

そして、40年間の実験を経て生き残ったのはたったの72名だった。

多くの尊い命が身勝手な実験によって失われたのである。

タスキギー梅毒実験が暴露されたことで、黒人社会がアメリカ政府に寄せていた信頼は深刻な形で裏切られ、この実験により、黒人らの医療への信頼度の低下や健康診断への恐怖感は高まってしまった。

そして結果的に、黒人男性の45歳時点での平均寿命が1.4年も減少してしまった。

我々が普段受けている医療の進歩の裏側には、多くの犠牲者がいることも事実である。

もしかしたらこの現代においても、私たちの知らないところで実験は行われているのかもしれない…